デュシャンの人生

1887年、ノルマンディー地方セーヌ=マリティム県ブランヴィルの裕福な家庭に生まれる。父は公証人。マルセルは7人兄弟の3男であった。マルセルは兄らの影響で少年時代から絵を描き始める。高校を卒業後、1904年パリに出てピュトー派の兄らと合流。兵役終了後、アカデミー・ジュリアンで絵画を学んだ。初期には印象派やフォーヴィスム風の作品や、『階段を降りる裸体』(1911年、1912年、1916年制作の3バージョン)のようなキュビスムと未来派の影響を受けた絵画作品もある。

「死ぬのはいつも他人ばかり」

デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ、20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われる。デュシャンが他の巨匠たちと異なるのは30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していないことである。彼が没したのは1968年だが「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで、以降は油絵を放棄した。その後、通称「大ガラス」と呼ばれるガラスを支持体とした作品の制作を続けていたが、これも未完のまま1923年に放棄。以後数十年間は「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表するほか、ほとんど「芸術家」らしい仕事をせず、チェスに没頭していた。

彼のこうした姿勢の根底には、芸術そのものへの懐疑がある。晩年の1966年、ピエール・カバンヌによるインタビュー(『デュシャンは語る』ちくま学芸文庫)の中でデュシャンは「網膜的」な芸術への懐疑と嫌悪を明言している。

墓碑銘に刻まれた「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉も有名。寺山修司が好んだとされる。

マルセル・デュシャン

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887年7月28日 - 1968年10月2日)は、フランス出身でのちアメリカで活躍した美術家。20世紀美術に決定的な影響を残した美術家である。画家として出発したが、油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。チェスの名手としても知られた。ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)という名義を使ったこともある。2人の兄、ジャック・ヴィヨン(Jacques Villon, 1875年 - 1963年)とレイモン・デュシャン=ヴィヨン(Raymond Duchamp-Villon, 1876年 - 1919年)も美術家。

フォーマリズム理論

アメリカ美術がヨーロッパ美術を乗り越えたとして、抽象表現主義をさかんに称揚したグリーンバーグ(アメリカの美術評論家)のフォーマリズム理論が、当時のヨーロッパでいかに反感を持たれたかを示すパフォーマンスにつぎのようなものがある。

ロンドンのセント・マーティン美術学校で講師をしていたジョン・レイサムは、グリーンバーグの著書『芸術と文化』が生徒の間で大きな影響力をもっていることを憂慮し、学校の図書館からそれを借りだした。そして生徒と美術関係者を自宅に集め、同書の任意のページを噛ませた。吐き出した紙は容器に入れ、塩酸と水酸化ナトリウムと酵母を加えてどろどろになるまで溶かし、一年後、その状態で学校に返却した。その結果、彼は学校を首になった(『Still and Chew』(1965年))。

アート・アンド・ランゲージ

最後発の「アート・アンド・ランゲージ」グループ(ジョセフ・コスースも参加した)は、コンセプチュアル・アートをきびしく定義し直した。それまでのほとんどの芸術作品(コンセプチュアル・アートを含む)は、アーティストの社会的・哲学的・心理的基盤を図解したものにすぎないと切り捨て、その考えのもとに出版物、目録、文書、絵画の制作を続けた。彼らにとっては芸術作品の制作よりも、芸術について論じることのほうが重要だった。彼らは初のコンセプチュアル・アートの展覧会と称して、1970年に「コンセプチュアル・アートとコンセプチュアル・アスペクツ」展(ニューヨーク文化センター)を行った。

概観

コンセプチュアル・アートは、ミニマル・アートのつぎの(シリアスな)アートとして、美術ジャーナリズムが舞台を用意し、預言者の登場を待ちうけたアートであった。最終的にはジョセフ・コスースが預言者の位置を占めたが、そこに至るまでには紆余曲折があった。はじめローレンス・ウェイナー、ロバート・バリー、ダグラス・ヒューブラーが注目されたが、ソル・ルウィットが『コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ』(『アート・フォーラム』誌、1967年夏号)というエッセイを発表すると、これが「コンセプチュアル・アート宣言」のように受け取られた。しかしルウィットは物理的な作品を制作するため、厳密にはコンセプチュアル・アーティストとはいえない。

デュシャン

デュシャンは従来の絵画や彫刻という形式に当てはまらないレディ・メイド(既製品)という芸術形式を提起した。1950年代、抽象表現主義に対する反発としてネオダダ運動がおこり、デュシャンが再評価された。ネオダダのアーティスト、ロバート・ラウシェンバーグはウィレム・デ・クーニングに提案してドローイングをもらい、それを丹念に消し去って『消去されたデ・クーニングのドローイング』(1953年)という作品を制作した(共同制作というべきだが、ラウシェンバーグは自分の作品であるとしている)。ポップ・アートのアンディ・ウォーホルも、『エンパイア』(1964年)などのコンセプチュアルな個人映画(実験映画)をつぎつぎに制作・上映し、話題になった。ヨーロッパにおける先駆者としては、イヴ・クラインとピエロ・マンゾーニの存在が大きい。フルクサスの活動はしばしばコンセプチュアル・アートと混同されるが、ミニマル・アートとともに一方の親とみるべきである。ゴダール監督の映画『小さな兵隊』(1961年)はコンセプチュアル・アートのタイポグラフィック的なスタイルに大きな影響を与えている。

コンセプチュアル・アートとは

コンセプチュアル・アート(Conceptual art)は、1960年代から1970年代にかけて世界的に行われた前衛芸術運動。アイデア・アート(Idea art)とも呼ばれる。 日本ではかつて概念芸術や観念芸術と訳されることが多かったが、いまは「コンセプチュアル・アート」とカタカナで書かれることが多い。1966年−1972年が最盛期。
コンセプチュアル・アートのルーツは、1910年代のマルセル・デュシャンの仕事に求められる。