アートとパリとピカソ その7
同じパリにあるルーヴル美術館などと比べれば、ピカソ美術館は小さな個人美術館である。
けれど、20世紀最高の巨匠とうたわれる芸術家の作品を、これほど豊富に、しかも系統立てて収蔵した美術館は、世界広しといえどここ一館。
じっくり楽しむには、最低半日はほしい。
しかし、ここでそれだけの時間はとれないという旅行者のために、乱暴を承知で「効率のいいピカソ美術館巡り」を提案してみたい。
この古い館の門をくぐって石畳の庭に立っと、正面が美術館の入口。
同じパリにあるルーヴル美術館などと比べれば、ピカソ美術館は小さな個人美術館である。
けれど、20世紀最高の巨匠とうたわれる芸術家の作品を、これほど豊富に、しかも系統立てて収蔵した美術館は、世界広しといえどここ一館。
じっくり楽しむには、最低半日はほしい。
しかし、ここでそれだけの時間はとれないという旅行者のために、乱暴を承知で「効率のいいピカソ美術館巡り」を提案してみたい。
この古い館の門をくぐって石畳の庭に立っと、正面が美術館の入口。
18世紀には、フランス革命時のパリの大司教として知られるジュイニェ家のものとなり、その後工芸学校として若い芸術家たちを迎え入れてきたオテル・サレ。
一時は住む人もなく、荒れ果てていたこの館の運命を変えたのは、1968年に成立した新しい相続税法だった。
ピカソ生存中に施行されたこの法律は、遺産相続税を芸術作品で物納してもよいという内容だった。
1904年、23歳でパリに移り住んで以来、この街を舞台に描き、恋し、生きたピカソが、91年の生涯を閉じたのは1973年。
新法成立の5年後だった。
今では世界中のピカソ・ファンの憧れを集めて、開館時刻前から見学者の行列ができるほど人気の高いピカソ美術館。
マレ地区という、パリでも一、二を競う瀟洒な歴史保存地区にこの美術館が誕生したのは、1985年9月23日のこと。
美術館となって現代に蘇ったこの建物は、実は30(庫以上も昔1659年に塩税徴収官ピエール・オーべ一ルのために建てられた貴族の館であった。
その建築主の職業から「オテル・サレ(塩の館)」と呼ばれたこの邸宅は、その後、主をかえながらも建築当時の優美な姿そのままに、パリの歴史を見守り続けてきた。
亡くなったこの巨匠の作品の散逸を防いだ。
物納される作品は、専門家と遺族の話し合いで決定されたが、残された作品があまりにも膨大であったため、その作業に6年もの歳月を要したという。
一方、作品を収容する新しい美術館の建設も計画された。
検討の結果、当時パリ市所有となっていたこの「塩の館」を改築し、ピカソ美術館にしようという案が採用された。
1983年5月、コンクールで選ばれた設計者ローランド・シムネは、この館を美術館にするべく工事を開始したのだった。
新しい芸術運動の根城となった場所に立つと、感慨もひとしお。
そしてネオンがともる頃には、ロートレックが夜ごと訪れたキャバレー、ムーラン・ルージュをのぞいてみる。
踊り子たちのフレンチ・カンカンに導かれくいつしか画家が描いたベル・エポックの世界へと迷い込む。
ユトリロやピカソが通ったシャンソン酒場ラパン・アジルでは、今も昔懐かしい歌声が流れる。
しみじみと、または華やかに、芸術の丘の残り香を堪能してみたい。
また、舞台などを見ながら写真を撮ったりするのも楽しみもある。
モンマルトルの丘で生まれ育った彼は、モンマルトルの様々な表情をキャンバスに描きとめた。
丘の頂上に典雅な姿を見せて建つサクレ=クール寺院、石畳の小道沿いにひっそりと建ち並ぶ白壁の家…
今でもモンマルトルの裏道を歩けば、彼が描いたままの静かなたたずまいを目にすることができる。
さらに、この丘に暮らした画家たちのアトリエ跡を散策してみる。
とりわけ有名なのが、20世紀初頭にピカソ、ドラン、ヴラマンクらが共同生活を送っていたアトリエ長屋「洗濯船」。
時代の流れにのって、キャバレーやシャンソン酒場がひしめくパリきっての歓楽街に発展。
「自由の町モンマルトル!聖なる丘モンマルトル!」
画家や詩人たちは口々にそう叫び、夜の街に繰り出した。
自由で華やいだ雰囲気のなか、彼らはのびのびとその才能を開花させていく。
芸術の丘モンマルトルに、そんな古き良き時代の面影を追って、画家たちの足跡をたどってみよう。
モンマルトルを愛した画家の中でも、忘れてはならないのがユトリロであることは言うまでもないだろう。
ウォーホルの作品、キャンベル・スープ缶。
これがファクトリーで制作された作品、第2弾です。

Ⅰ、Ⅱのシリーズがあり、これはⅡのなかの1点です。
ウォーホルは1962年から1968年頃、この缶を題材とした作品を多く制作しました。
その一連の作品は、ペンシルベニア州にあるアンディー・ウォーホル美術館に展示されています。
ウォーホルがこのスープ缶を選んだ理由にこんなことを言っています。
「僕は自分が美しいと思うものを、いつも描いているだけです。
僕はスープを描いていますが、それは僕がスープを好きだから。」
とてもシンプルな理由です。
モチーフを選んだ理由なんて芸術家には愚問ですね。
アンディ・ウォーホルは、『エンパイア』(1964年)などのコンセプチュアルな実験映画を次々に制作・上映していました。
この『エンパイア』という映画は、今は無きエンパイアステートメント・ビルを延々と映したものです。
長さはなんと8時間!!
衝撃的な長さです。
どんな不眠症の人でも眠れるかもしれません。

ウォーホルはこんな言葉を残しています。
「私は退屈なものが好きです。窓のふちに腰をかけて、外を眺めて見ると、実に面白く感じる。むろん、そのために時間がとられてしまう。しかし、実際に、一日中窓から外をのぞいている人々の姿が見られるのではないだろうか。だから、私自身もそうしたいと思う。どっちみち、自分の部屋の窓からのぞいていなければ、私はどこかの店にすわって外の往来を眺めているにちがいない。だから、私の映画は時間つぶしの方法を示したものにすぎないのである。」
大型機に地盤沈下をもたらしたダウンサイジングとオープンネットワークを主導したのは、80年代後半から本格的に市場が立ち上がったワークステーションである。
サン・マイクロシステムズやヒューレット・パッカード(HP)といった有力メーカーが競いあったことで、当初は技術者向けに限られていたワークステーションは、金融機関などでも盛んに導入されるようになり、その市場規模は大きく膨れ上がっていった。
ワークステーションは単独で使われることはまずない。
多くの場合、ワークステーション同士をネットワークで結んで使う。
このネットワークは大型機中心のネットワークとは似て非なるものであり、それゆえワークステーションは多くの技術者、ビジネスマンの支持を得たのである。
それでは、大型機のネットワークとワークステーションのネットワークはどこが違うのか。
前者の場合、中央にあるコンピューターは確かに性能抜群だったが、ユーザーが日常的に使用している端末機の能力は極めてお粗末だった。
ちょっとした分析作業であっても端末機には荷が重すぎ、かといってホストの能力を使おうとすると使用時間の順番待ちといった事態に直面した。
後者の場合、個々のワークステーションは、大型機につながれている端末とは比較にならないほどの高い処理能力を有しているので、ちょっとした分析作業程度なら朝メシ前である。マシスによると、もう少し込み入った仕事をしたいという時には、ネットワークで結ばれた他のワークステーションの処理能力や情報資源を利用できる。
高価な大型機を必要としない分、コストは安くなるし、システムの柔軟性も高くなる。
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