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   <title>芸術を捨てた芸術家</title>
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   <subtitle>大ガラスに魅せられたんだよね。もっと知りたいよ。</subtitle>
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   <title>米とみそ汁は世界最高級の栄養食物　3</title>
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   <published>2012-01-22T03:21:27Z</published>
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   <summary>みそ汁は、みそ自体消化のよい優れた植物性たんぱく質であるところへもってきて・・・...</summary>
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      みそ汁は、みそ自体消化のよい優れた植物性たんぱく質であるところへもってきて・・・


具になるものを加えることで、植物性たんぱく質をさらにふやしたり、ビタミン、ミネラル、脂肪まで、すべてを容易に無理なく摂取させることができるのです。


さらに、ご飯とみそ汁を組みあわせることは、より意味があることなので、ここでたんぱく質の値について説明しておくことにしましょう。


人間の体のたんぱく質は、各種アミノ酸からできていますが、人間の体のなかで相互転換作用でつくりかえることができないアミノ酸が8種類あり、これは食物によって外からとり込まなければなりません。


このアミノ酸のことを必須アミノ酸とよびます。


どの必須アミノ酸もバランスよく、しかも十分に含まれている卵を、プロティンスコア100として、それとの比較で、ほかの食品のアミノ酸の構成を数字であらわし、たんぱく質の評価に使っています。



      
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   <title>米とみそ汁は世界最高級の栄養食物　2</title>
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   <published>2011-12-02T03:21:10Z</published>
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   <summary>豆腐や油揚げはいうにおよばず、緑黄色野菜馬淡色野菜、そして、にんじん、ごぼう、里...</summary>
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      豆腐や油揚げはいうにおよばず、緑黄色野菜馬淡色野菜、そして、にんじん、ごぼう、里いも、さつまいも、大根などの根菜類、あさり、しじみ、わかめなどの海産物ともよく調和します。


また、豚汁のように肉を入れたり、バターを落とし江り、落とし卵をしてもあいます。


まさに、すべての食品の味と栄養価を発揮させるオールマイティの料理法です。


・・・そこで、みその成分について少し考えてみましょう。


原料の大豆は、たんぱく質36パーセント、脂肪17パーセントを含んでおり、畑の肉といわれるくらいたんぱく質として優秀なものです。


日本人は大豆のなかに含まれる栄養価の高さを、経験的に知っていたのでしょう。


みそだけではなく、豆腐や納豆などの加工食品、しょうゆなどの調味料を、江戸時代以降、庶民の常用食品として使い続けてきました。


これらは、大豆を生化学的に、もう一段、消化しやすいたんぱく質に変化させたものです。

      
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   <title>米とみそ汁は世界最高級の栄養食物</title>
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   <published>2011-11-11T03:20:51Z</published>
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   <summary>米は、たんにエネルギー源食糧と一般には誤解されているかもしれませんが、良質のたん...</summary>
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      <![CDATA[米は、たんにエネルギー源食糧と一般には誤解されているかもしれませんが、良質のたんぱく質をかなゆ含み、従来は1日にとるたんぱく質のうち3分の1ていどまでは、米からとり込んでいたのです。


ただひと口に米といっても、精白して糠や胚芽をとり去った白米では、ビタミンB&sup1;が75パーセント近くも失われてしまうし、玄米に含まれているビタミンB&sup2;、B6、B12、ナイアシン、パントテン酸、ニコチン酸、マンガン、葉酸、そしてビタミンEなどもなくなっています。


・・・ですから、お米の見直しという点で、玄米かせめて胚芽米をとり入れていただきたいと思うのです。


さて、もう一方のみそ汁ですが、これほど便利で栄養的にもバランスのとれた食物を、日本人がうみ出し、食べ続けてきたことはすばらしいことだと思うのですが・・・


みそ汁ももはや現代っ子たちにとって、カップメンほどに愛着のある食べ物でもなければ、ひんぱんに食べられる食物でもないのは、とても残念なことです。


みそ汁は、ありとあらゆる材料が具として調和します。

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   <title>食生活に欠けているもの</title>
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   <published>2011-10-02T02:20:13Z</published>
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   <summary>モチひとつつくるにも、米を臼でひき、モチをつくのは男の仕事、それをダンゴに丸めた...</summary>
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      モチひとつつくるにも、米を臼でひき、モチをつくのは男の仕事、それをダンゴに丸めたりアンコを入れるのは女や子どもの仕事というように・・・


家族が一体となって、それぞれの適性と役割りに応じて食事を準備したわけです。


いま、私たちの食生活のなかで欠けているものが、この家族の一体感なのです。


日本型食生活というと、米とみそ汁がまっ先に浮かびます。


ところが、この日本人の主食&quot;米という習慣が、いまくずれつつあります。


日本人の総エネルギーのなかで米の占める割合いは、戦後の60パーセントから現在30パーセント台にまで減少していますが、子どもや若者のあいだでは10パーセント以下と、今後もさらに減少する傾向にあります。


しかし、日本人がこの独特の風土性の土地に住みついて、一貫した食生活を築きあげ、健康を維持し、特有の体質や国民性をつちかってきたことを考えますと&quot;米食&quot;の重要性がいっそう深い意味をもって浮かびあがってきます。


      
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   <title>幸運と災厄に関する話</title>
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   <published>2011-09-16T08:18:08Z</published>
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   <summary> 古来の神学者は、幸運に関してはほとんど論議を尽くそうとしないで、もっぱら悪運の...</summary>
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      <![CDATA[
古来の神学者は、幸運に関してはほとんど論議を尽くそうとしないで、もっぱら悪運の魔術的対策ばかりについて汗牛充棟の言をなしています。


むろん、あらゆる災厄に関しての前兆に言及しているわけですから、戦争とか、人類の滅亡とかいう最大の災厄についても、深刻、かつ脅迫がましい大予言が、すでに宗教関係の道徳経典のなかにちゃんと述べられていました。


たとえば『新約聖書』（マタイ伝）にこうあります。


「オリブ山に座したまいし時、弟子たちひそかに御許に来たりて言う。


われらに告げ給え。


これらのことはいつあるか。


又なんじ来り給うと世の終りとには、何の兆あるか。


イエス答えて言い給う。


・・・又なんじら戦争と戦争の噂とを聞かん。


つつしみておそるるな。


かかることはあるべきなり。


されど未だ終りにはあらず」。


<a href="http://www.uranai-king.com" target="_blank">電話占いの詳細は＞＞</a>

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   <title>ヤンキー・メカニックスの伝統</title>
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   <published>2011-09-05T07:38:15Z</published>
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   <summary>1851年ロンドンで開催された水晶宮博覧会ではわずかばかりしか出品しなかったにも...</summary>
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      1851年ロンドンで開催された水晶宮博覧会ではわずかばかりしか出品しなかったにもかかわらず、アメリカの製品が「先進国」イギリス工業家の目を奪いました。


すなわち、この博覧会にはアメリカから掛時計、鍵、対取槻、ビストルや銃などの火器類が出品されただけでしたが、イギリス人たちはこれらの製品から、彼らがいう独自の「アメリカ的製造方式」を読みとったからです。


この「アメリカ的ジステム」こそは現代の大量生産に基づく工場制生産に結びつけられる基本的要素i部品の標準化と互換性を含んでいたのです。


イギリス政府は水晶宮博覧会後、ただちに2組の専門家チームをアメリカに派遣。


つぶさに現場で「アメリカ的製造方式」の実態を調査させるとともに、その後、銃器製造用のアメリカ製工作機械を購入しています。


これら機械を建設中だった兵器廠に導入するために、イギリス政府は「後進国」のアメリカ人技師や監督を雇わなければならなかったのです。


アメリカの著名な銃器メーカーのコルト社が、この博覧会への出品を契機に1853年イギリスに工場進出してアメリカ多国籍企業の第一号になったのも、こうした「技術優位」を足がかりにしたものといえるでしょう。


この「アメリカ的製造方式」として、イギリス人から評価された互換性部品システムにしても、もとはといえば、ヨーロッパから移転されたものです。


      
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   <title>ヒトが稲を手に入れたいきさつ　2</title>
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   <published>2011-08-22T03:04:09Z</published>
   <updated>2011-08-22T21:40:05Z</updated>
   
   <summary>品種によって多少の違いはありますが・・・ 水稲の成長できる最低水温は摂氏13度、...</summary>
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      <![CDATA[品種によって多少の違いはありますが・・・


水稲の成長できる最低水温は摂氏13度、最高水温は43度くらい、開花の適温は30度くらいといわれています。


緯度でいうと北半球では北緯20度から29度くらいまでの間で栽培されています。


日本では江戸時代末期から長年の品種改良の努力によって北海道の北端、北緯45度くらいまで栽培できる品種を作り出しました。


一方、麦は冬型栽培の禾本科(イネ科)植物で、北半球ではおおよそ北緯30度から65度で栽培されています。


発芽の最低温度は零度から2度くらいで、栽培の適温は20度前後といわれていますが・・・


発芽後生殖成長をするのに零度くらいの低温が40日から50日くらい必要とする品種が多いといわれています。


このために秋に種を播くのですが、この冬型禾本科植物の栽培地域は、発芽以降比較的気候が安定しているために、リスクの少ない農業といえるでしょう。


ちなみにわたしの家の照明は<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>を使用しています。


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   <title>ヒトが稲を手に入れたいきさつ</title>
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   <published>2011-08-20T03:02:33Z</published>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://onpointpub.com/">
      <![CDATA[ある本ではこのように書かれています。


「サバンナ農耕文化は乾燥した熱帯であるサバンナ地帯で、夏のモンスーン雨期に生育した(中略)野生の禾本科の穀粒を食用とすることを知った人々が、サバンナ地帯から離れて、雨量の多い地帯にはいっていくと・・・


そこにいままでの乾燥したサバンナとちがった、多くの食べられる湿生の禾本科植物の自然の群落に出あうことになる。


それらの植物の中でとくにすぐれていて、人間によってえらびだされ、水田という新しい栽培地で栽培されるようになった雑穀が、すなわちイネであるというわけである」


・・・といういきさつで人間は稲を手に入れたようです。


この稲を、アフリカ、インドの雑穀、マメ類、ヤムイモ、タロイモを主とする夏期農耕としてのサバンナ農耕文化の隣に位置する、照葉樹林文化の焼畑農耕の技術が、水田稲作の開発に発展したと考えられています。


稲は熱帯原産の夏雨型の植物なので、高温多湿を好みます。


これは、<a href="http://www.temponotatsujin.jp/SHOP/54606/list.html" target="_blank">かくれん棒</a>などの照明と同じく、わたしたちの生活に欠かせないものです。


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   <title>工業化と鉄　3</title>
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   <published>2011-08-14T07:37:34Z</published>
   <updated>2011-08-14T21:40:05Z</updated>
   
   <summary>1840年代には製鉄業では大規模な工場制生産をはじめるものも出てきました。 たと...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://onpointpub.com/">
      1840年代には製鉄業では大規模な工場制生産をはじめるものも出てきました。


たとえば、ペンシルベニアのある製鉄会社の工場は最大級のものでしたが、熔鉱炉4基、鋳物、圧延工場から成り、レールだけでも年産1～1・5万トンを生産していました。


これとともに、水流の力に深く依存していたニューイングランドの工業地帯でも蒸気機関が動力として使用されはじめ、製造業の範囲が著しく拡大されました。


1850年代には工場制生産は火器(銃・ピストル)、時計、ミシン、製粉、製靴、農業機械、馬車製造などの産業に拡大していました。


こうして1869年にはニューイングランドの製造業において、使用動力の3分の}が蒸気に転換していました。


他方、工場立地が水流に依存しなくなったため、ニューイングランドから広く東北部に工業地帯が拡大し、また運河や鉄道の発達によって、内部大陸の市場も拡がり、工業化の波がアパラチア山脈を越えて西進しました。


・・・このような展開は製鉄業への需要を急速に高め、製鉄技術の進歩や原料・燃料の新鉱床の発見がこれにいち早く追随したのです。


・・・このようにして、アメリカでもイギリスの場合と同じように、石炭.鉄・蒸気力の三位一体が産業革命の原動力であったわけですが、19世紀のなかばになると、アメリカの産業はヨーロッパではみなかった独自の展開をはじめていたのです。


      
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   <title>古代日本の建築物と外壁について　2</title>
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   <published>2011-08-05T03:53:16Z</published>
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   <summary>カンバスの作成と彩画が同じ画師によって行なわれたとすれば・・・ その技法は法隆寺...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://onpointpub.com/">
      <![CDATA[カンバスの作成と彩画が同じ画師によって行なわれたとすれば・・・


その技法は法隆寺で想像したようにフレスコと断じざるを得ないでしょう。


そして白土と石灰の違いこそあれ、法隆寺と年代的にほぼ同じと思われる高松塚の壁画も、おそらくこの例にもれないと思われます。


・・・以上を要約すれば、奈良時代から平安初期にかけて、左官工事の主担者は土工で、中央の土工司に統轄されていました。


しかし土工が常に全工程を担当したのではなく、熟練を要しない単純作業・・・


例えば土の混練・運搬、ときには荒壁塗等iは非専門職の役夫に委ねられていました。


これは現行の左官工事において、下地の作成から土の混練までを手伝職が行なっているのと似ており、奈良時代当時、工事管理面でこのような合理化が進んでいたことは注目されます。


次に白土または石灰による上塗は当然土工の職掌ですが・・・


壁画下地のカンバス作成のための白璽塗は常に画師が行なっており、土工はそれ以外の箇所の上塗だけを担当したものと思われます。


現代でいう<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>のようなものですね。

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   <title>古代日本の建築物と外壁について</title>
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   <published>2011-07-24T03:52:04Z</published>
   <updated>2011-07-24T21:40:04Z</updated>
   
   <summary>古代の建築物の壁には、中塗面にさらに表土塗一層を加え、その面に壁画下画の陰刻が認...</summary>
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      <![CDATA[古代の建築物の壁には、中塗面にさらに表土塗一層を加え、その面に壁画下画の陰刻が認められています。


その上の白土塗が画師の職掌として行なわれたことを想定しました。


この事実と、いまの東大寺の画師名簿の記録とを重ね合せれば、壁画を描く場合の白土塗が画師によって行なわれたということを、もはや動かすことはできないでしょう。


石山寺では延べ164人の画師(天平宝字5年12月より翌年8月まで。


なお同期間における土工動員数は延べ170人。


・・・いずれも司工・雇工の合計)が動員されており、そこに壁画の描かれたことは疑いをいれません。


ところで仏堂は「塗殿」ですから、そこに板壁が多用されたとは考え難く、大部分の壁画は、法隆寺と同様、土壁の上に白土でカンバスを作り、その上に描かれたと見るほかはありません。


・・・しかるに本来の左官専門職である土工はその白土塗には関与していないのですから、その施工者は画師をおいて他に求めることはできないでしょう。


これはまだ<a href="http://www.tosou-navi.jp/" target="_blank">外壁リフォーム</a>技術などがなかった頃の話です。



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   <title>工業化と鉄　2</title>
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   <published>2011-07-20T07:37:02Z</published>
   <updated>2011-07-20T21:40:04Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://onpointpub.com/">
      輸送費が下がれば製鉄コストも低下し、鉄の価格は下がり、いっそうの輸送力の向上がもたらされる、といった具合です。


アメリカでは新大陸への植民とほとんど同時に鋳鉄や鍛鉄の生産がはじめられて、一645年にはマサチューセッツ州リンにアメリカ最初の熔鉱炉が造られました。


独立時にはアメリカは世界鉄生産の14%を占め、その生産高はイングランドとウェールズを合わせたものより多かったのです。


しかしその半面、製鉄技術はヨーロッパに比べて著しく遅れ、しかも企業は地方に分散し、生産規模は零細であったことも事実です。


1860年においても平均の企業規模は綿業に比べ、半分にも足らなかったのです。


森林資源に恵まれていたため、南北戦争ごろまで燃料を木炭に依存していたことも大きな理由でした。


このためイギリスで開発された革新的製鉄方式である、パドル炉の導入やコークスの使用も遅れました。


しかし、1830年代後半になると、鉄道の建設がはじまる一方で、ペンシルベニア州東部(アレゲニー山脈)に良質の渥青炭が採掘されるようになり、高品質の銑鉄や錬鉄が生産可能となりました。


      
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   <title>工業化と鉄</title>
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   <published>2011-06-13T07:36:16Z</published>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://onpointpub.com/">
      イギリスではランカシャー紡績業の動力源となった蒸気機関も、アメリカではニューイングランドにおける繊維産業の発達が、前述のように河川の水流の落差を利用した水車の力によるものでした。


1840年ごろでも、馬力あたりコストでみると、アメリカでは蒸気力は水力の5～6倍高かったからです。


これに対し、1838年の政府報告書によると、アメリカで蒸気によって発生された動力の60%は船舶用エンジンによって占められました。


ロバート・フルトンのハドソン川における実験(1807年)以後、蒸気船がミシシッピ川など内陸水路で急速に普及し、アパラチア山脈以西の大陸の開拓に貢献した。


インフラストラクチャーの整備とともにアメリカ産業の発展に重要な役割を果たしたのは、製鉄業の開発です。


同時に重要であったのは、ローゼンバーグも指摘するように、インフラストラクチャーの整備と製鉄業の発展とが相互に関連して、工業化の過程をきわめてダイナミックなものにしたことです。


冶金技術の改良は蒸気機関のそれを意味しましたし、後者は前者の改良をさらに進めました。


安い鉄は鉄道の発展を促し、後者は鉄鉱石や燃料の輸送費を引き下げました。

      
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   <title>水田酪農の選択　4</title>
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   <summary>農民組合の結成には、私はまだ20歳代の若者で直接かかわりをもたなかった親父の時代...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://onpointpub.com/">
      農民組合の結成には、私はまだ20歳代の若者で直接かかわりをもたなかった親父の時代の話になるわけです。


私の村の農民組合の結成は昭和22、3年ころでした。


このころ農民組合の勢力は盛んで、村会議員とか農協の理事、農地委員などにどんどん進出して組合推薦のメンバーが100%当選するようになっていました。


昭和25年ころ、秋田の農民運動史の中に小作争議の指導者として勇敢に活躍した一人として記録されている佐藤さんという人がいました。


体格の頑丈な大男で大相撲にあこがれて弟子入りに上京するがあまり見込みがないということで、数年にして郷里に帰り、農民運動をはじめた人で、無欲な闘士でした。


その人が農民組合のリーダーで、組合の勢いの盛んなときですから村会議員には当選する、農協の理事には当選する。


そして、農協の理事に農民組合の仲間が多数を占めておりましたから、佐藤さんは農協の組合長候補になった。


その組合長候補が、物質が極端に欠乏していた時期でしたから、魚とか塩とか地下足袋のヤミ買いに使う当時としては大金だったんですが160万ぐらいの農協の金を持って歩いていてペテンにかかる、という事件を起こしました。


事業に失敗をして信用を失ってしまうわけです。


      
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   <title>水田酪農の選択　3</title>
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   <published>2011-04-27T02:59:44Z</published>
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      サイロも15トンサイロ6基ありますが、これも全部手づくりです。


補助金事業のサイロ作りと比較して丁度半額でできあがりました。


借金しないで農業をやって行くためには、そうするしか道はありません。


しかし秋田県の水田酪農だけに限らないでしょうが、残念ながら後退の一途をたどっています。


秋田県では、最盛期のころは水田酪農家は6千戸ありました。


ところが、現在600戸を割りはじめてるんです。


10分の1に減りました。


そして毎年、毎年減り続けています。


私の所属する酪農組合も、かつて200戸の酪農家を組織した酪農専門農協ですが、現在生き残っている人はわずか40戸にすぎません。


その40戸ももっと減りそうです。


各所で全滅しているその中でまだ残っている人が40戸いるとは立派だと評価する人もいるが、酪農経営の中心は息子の時代に移っています。


今、40戸の中で後継者がハッキリしている家は30戸です。


そのうち30歳代になっても嫁をもらえない後継者が6人もいます。


それで困っています。


とにかく、そんなことで農業を守っていくには難しい問題が山積みしているわけですが、生き残るためがんばり続けています。


これも戦後の混乱期の中で開いた小さな部落会館での文化講座から生まれた水田酪農であったのです。


      
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