ヤンキー・メカニックスの伝統
1851年ロンドンで開催された水晶宮博覧会ではわずかばかりしか出品しなかったにもかかわらず、アメリカの製品が「先進国」イギリス工業家の目を奪いました。
すなわち、この博覧会にはアメリカから掛時計、鍵、対取槻、ビストルや銃などの火器類が出品されただけでしたが、イギリス人たちはこれらの製品から、彼らがいう独自の「アメリカ的製造方式」を読みとったからです。
この「アメリカ的ジステム」こそは現代の大量生産に基づく工場制生産に結びつけられる基本的要素i部品の標準化と互換性を含んでいたのです。
イギリス政府は水晶宮博覧会後、ただちに2組の専門家チームをアメリカに派遣。
つぶさに現場で「アメリカ的製造方式」の実態を調査させるとともに、その後、銃器製造用のアメリカ製工作機械を購入しています。
これら機械を建設中だった兵器廠に導入するために、イギリス政府は「後進国」のアメリカ人技師や監督を雇わなければならなかったのです。
アメリカの著名な銃器メーカーのコルト社が、この博覧会への出品を契機に1853年イギリスに工場進出してアメリカ多国籍企業の第一号になったのも、こうした「技術優位」を足がかりにしたものといえるでしょう。
この「アメリカ的製造方式」として、イギリス人から評価された互換性部品システムにしても、もとはといえば、ヨーロッパから移転されたものです。